
僕は和田さんから仕事についてたくさん教わった気がする。ふとそんなことを考えた。もうすぐ子供が生まれるけど、そろそろ今の仕事をやめて、次のチャレンジしようかなと心の隅で考えるようになったからだろうか。和田さんと過ごした1年を、38歳の誕生日に思い出してしまった。
和田さんとの出会い
たしか、専門学校で就職活動をしていたときか、就職が決まった後か。「ECCウェブスクール(今はECCウェブレッスンになったのかも)」のバイトが学校で紹介されていた。ECCウェブスクールは、今ではあたりまえのオンライン英会話を提供している会社だ。バイトの仕事は、そのシステムやユーザのサポートがメインで、エンジニアとして就職する前に、いい勉強になるだろうと応募することにした。
当時はオンライン英会話なんて存在してなくて、会社はパイオニアとしての試練の時期。ユーザは少なく、トラブルも多いんだけど、仕事場のみんなが眩しいくらい情熱的に働いているすばらしい職場だった。
面接はあんまり覚えていないんだけど、部屋に入ってきた和田さんはずっとニコニコしていて、新しいおもちゃを見つけた子どもみたいな目で話しかけてくれた。少ししたら飽きたのか、「もう、ええわ。腹減ってるか?」と聞かれ、「はい」と答えると近くのモスバーガーに連れて行ってくれた。
そこで、サービスの話や仕事の話とか、いろんな話を和田さんはしてくれた。和田さんはいつも楽しそうに話す。どうやら面接には受かったらしい。
システムサポート室のお仕事
システムサポート室には、和田さんと僕しかいなかった。正確にいうともう一人いたのだが、その人が辞めてしまうので僕が雇われたのだ。
あとはたまにお菓子を持ってやってくる、元富士通のSEだった女性。彼女はたまにやってきて、これからエンジニアとして働こうとする未来ある僕に、SIer業界の闇をとくとくと語り、僕は暗澹たる思いになり、それを見て彼女は満足気に帰っていくのだった。
また、別フロアにモーガンという博多弁を話せるプログラマがいて、「ダイ、プログラムを書くときはストーリーを考えるんだよ。どういう物語があって、それをどうプログラムで書いていくのか? それを考えるんだ」と、すばらしい名言を僕にくれた。彼はエンジニアの師匠。たまにこの名言をパクっている。
システムサポート室は、個別ブースになったレッスンブースを抜けて奥に進 んだ場所にこじんまりとあった。その狭い部屋で、大柄な和田さんと僕は仕事に追われていた。
メインの仕事は、レッスンののサポート。レッスン音声の調子が悪いときは、先生に変わってユーザとやりとりしなければならない。光回線がまだまだの時代だったのでとても苦労した記憶がある。設定をいろいろ調べて調整に苦労しているときに「がんばって!」という付箋を手元にはってくれる女性もいた。当時はまだなかったけど、ほれてまうやろ~!
あとは、スクールで働く元気で明るくキレイな営業のお姉さんたちのパソコンサポート。インターネットを活用する人にとっては当たり前のことでも、丁寧に教えると感謝されるのだ。どんな相手でも敬意を忘れてはならない。そして、相手がキレイな女性だと高いモチベーションが生まれる。あのころの僕の生産性は日本最高峰レベルだったはずだ。
この仕事の一番面白いところは、実際にサービスを使う人と話せて、そのサービスを最前線で支える人たちと働けるところだ。先生の横で体験レッスンを見守り、体験後に契約成立して営業の人とガッツポーズしたり、とても刺激的な仕事だった。
4月になると僕は就職のため横浜に行かなければならない。でも、それよりも先に、和田さんの退職が決まった。
和田さんの奥様のお父さんが、滋賀でかなり大きな会社を経営していて、その会社の経営を手伝うという。「滋賀に家を建ててもらっちゃってなぁ」と自慢気に話していたけど、なんだかとても寂しそうだった。最初は今の経営陣に認められるために、地味な仕事でもコツコツやっていくんだって。大人って大変だなって思った。
和田さんがいなくなり、システムサポート室には新しいメンバーが加わり、和田さんがいない日々が当たり前になっていった。
和田さんという生き方
和田さんには嫌いな人がいて、その人に対しては全力で「お前なんぞ嫌いじゃボケっ!」というオーラを問答無用にぶつけていた。これは周知の事実。本人は考えを変える気もなく、嫌なものは嫌なのだと言いはっていた。
仕事に慣れてくると僕がほとんど対応していた。肝心の和田さんはというと、巨漢を小さくまるめて、ミニ四駆の製作に勤しんでいた。和田さんはラジコンカーグランプリに出るぐらい、ラジコンに精通した人だ。子どもともラジコンやミニ四駆でよく遊ぶらしく、学校に行って、「校庭でラジコンをさせてください!」と校長先生に直談判して、すべての教員をあっといわせるぐらいモンスターペアレンツすごい人なのだ。
「大、知ってるか。朝礼台でラジコン操作は最高やけど、調子乗って遠くまで走らせると電波が届かなくなって、ラジコンが暴走して子どもたちの方に突っ込んでいくから注意が必要や」
お酒の飲み方も和田さんに鍛えられた気がする。バイト後にいつも「大、飲みに行くか。ちょっと待ってろ」といって、近所の焼き鳥屋に連れて行ってくれた。新しいサービスの立ち上げの苦境をものともせず、このサービスの意義やビジョンを楽しそうに語ってくれたっけ。和田さんはいつも楽しそうに話す。だからみんな勇気りんりんになる。
ネギと鶏肉の串を「ねぎま」と呼ぶことを教えてくれたっけ。「ねぎはわかりますけど”ま”ってなんすか?」「しらんがな」
そして、いつも終電間際まで飲んで、あわてて店を出て行く。和田さんはいつもおごってくれたから、僕も気に入った後輩にはおごろうと決めたのもこのときだ。二人でなんば駅までダッシュして、ビールがまわってぐらんぐらんになりながら電車に飛び乗っていた。
そういえばこんなことがあった。ユーザ側の問題で対応に手間どり、なんとかレッスンにこぎつけたあとのこと。とてもえらい人がやってきて、そのユーザから「サポートの人が偉そうで、上から目線だというクレームが来た」と言われた。僕はそんなつもりなんてなくてショックを受けたが、和田さんはすぐにこういってくれた。
「僕は隣で大の対応を聞いてましたが、一切問題はなかったです」
和田さんは仕事しないけど、とても頼りになるのだ。
僕は和田さんからたくさん教わった気がする
和田さんと副社長の家にWebカメラを設置しに行ったときに、副社長さんから「この子は春からうちで働くのか?」って聞かれて、和田さんが「いえ、もう就職先は決まっているんです」と寂しそうに答えた。
そう、いつかはおわりが来るのだ。このまま働き続けようと少し思ったけど、ちょっとパソコンに詳しいぐらいでしかない自分は、これ以上役に立てないと感じていた。「だから、もっと成長したら雇ってください」と話した。
僕は和田さんから仕事についてたくさん教わった気がする。いや、僕は和田さんから人生を教わったのだ。仕事も、人生も、ラジコンやミニ四駆も、ねぎまも。
和田さんは今頃、滋賀の大きな会社で社長でもやっているのだろうか。でもきっと、机のどこかには作りかけのミニ四駆があるに違いない。絶対にそうだ。
僕はどうだろう? 成長したのかな? 和田さん。