母さん、僕のあの帽子、どうしたでせうね?
西条八十の詩集の一言で有名な「人間の証明」。
ある黒人がなぞの死をとげる。
棟居刑事は被害者の過去を追い、日米同時で捜査が行われることになるが、
その結末は、意外な事実で幕を閉じることになった。
人間を証明することとはどういったものだろうか?
「人は殺してはいけない」、「年寄りを大切にする」といった、たくさんの規律みないなものは
人の心のどこかにあるのだろうが、証明できるかどうかまで判断ができるかは微妙だ。
人間というものは難しいもので、いい見本となる人間より、そうでない人間のほうが
多いのも悲しい事実だ。ましてや僕なんて「悪い見本」に決まっているだろう。
その自分を証明するものとはなんだろうか。
僕にとって言えば、「人間」と大きくはくくれないにしろ、ある信念を持っている。
僕はどこから来たかなんてわからない。生んでくださいと誰かに頼んだのかなんてわからない。
そうやって人間がこの「世界」というものに生まれてきたのであれば、
みんな同じ人間なのだから、共に生きるために支えあっていかなければならないだろう。
そうすることもせずに、わがままにすごしたいのであれば、人間のいない場所で
一人でそうすればいい。
前提条件として、僕はこの意味のわからないようなことが成り立っている世界で暮らしている。
いつ殺されるかもわからないし、いつ殺すかもわからない。
自分がほしいものすら見えなくなり、妥協と打算をくりかえす。
ごまかし続け、くだらない見栄をもって仮面をかぶって笑ってみる。
そこで僕は腐ってしまいたくない。
そんな世界を感じてしまったとしても、僕は生まれてきたのだ。生きているのだ。
精一杯の生命力を、この世界に証明したい。
「人間の証明」を一気に読んでしまったが、
棟居刑事の考え方が、少しわかる気がした。
彼は社会を憎んだ。人が困っていても、
対岸の火事を見るように通り過ぎる今の人間どもを憎んだ。
しかし彼は。。。
自分を信じることができるのであれば、同じ人間である誰かを信じることができるはずだ。
それから自分がどこへむかうのか決めればいい。
うまくいえないが、こういったことが人間の証明となりうるのではないかと考えた。