昔、アジャイルにおけるリーダーシップと組織改革について話をしたことがあります。こんなネタを話した本人がいうのもなんですが、今になって思えば、組織改革なんて不可能では? と思いはじめました。今日はその理由を書いてみようと思います。
アジャイルリーダーシップと組織改革
当時の資料はSlideshareで公開しています。また記事も書いているのでそちらも参照のこと。
//daipresents.com/2012/post-3985/
要約すると、「個人レベルでアジャイル導入してみたけど、いろいろあったけどなんかうまくいってる気がするよ」という話です。
さらに細かい話をすると、当時「正式な」アジャイル導入トライアルプロジェクトというものが別であり、そちらは有名なアジャイルコーチさんがサポートするということになったので、「自分は自分でがんばろう」と別ではじめた経緯がありました。
結果だけでいうと、正式なプロジェクトは失敗し、非公式なプロジェクトが陽の目を見ました。例え自分に関係無くとも、プロジェクトが失敗するのは本当に残念です。
組織的な導入を成功させる難しさ
こんなことがあったさらに一昔前に、「どうやったら組織全体に広められるか」を考えたことがありました。そのときの結論は「組織として『やる』と宣言し、実行に責任を持たせる」というもの。ようするに、「やれ」とトップダウンで進める形です。
しかし、やがて「公式にやってほしい」とか「組織的に進めてほしい」といった要望をもらうようになっても、トップダウンで進める気持ちになりませんでした。あまりモチベーションがわかず、丁重に断り続けていたら、やがて難癖つけられたりする始末です(笑)。
なぜやろうと思わなかったのか? 考えが変わってしまったのか? 当時はそこまで考えもせず、答えも見つからなかったのですが、最近になってその理由がわかった気がします。
理想の社会なんて信じるのはやめましょう
ちきりんさんの「理想の社会なんて信じるのはやめましょう」にはこう書かれています。
「あるべき姿」としての理想社会を信じる人達は、
・今の社会は理想の姿から遠すぎるから、少しずつ変えていく方法ではいつまでたっても理想社会には到達しない
・だから、今の社会を破壊しよう。そのための暴力は許される。なぜなら自分たちが目指している理想の社会は、現実の社会より圧倒的に正しい姿だからだ
という理屈を使います。
ちきりんさんは暴力部分ばかり指摘するのではなく、そもそも理想の社会なんて、この多様な時代に不可能だろうと言っているのだと思います。
理想のための犠牲
多少の犠牲はしかたないですか?
ちょっと前にアジャイル開発が再ブームになったときに、「これは革命だ!」とか「組織を変えるのだ!」と声高らかに謳う人たちを、社内外でたくさん見かけましたが、犠牲があっても「正義の名の下の犠牲」のようです。正義って何でしょう?
理想の世界を願うのであれば突き進めばいいと思います。また、会社といった比較的小さい世界ならそれも可能かもしれません。あなたがそう望むなら変わるかもしれない。
でも、本当にそれでいいの?