画期的治療法の実験台になれと言われた自閉症の青年ルウ。彼の人生の喜びと葛藤を繊細に描いた感動作。2004年ネビュラ賞受賞作品。
「あなたは考えたことがありますか?」と彼は訊いた。「暗闇の速度はどのくらいか?」
「アルジャーノンに花束を」と比較されて紹介されていたので読んでみた。解説にはこの「暗闇の速度」について、作者の自閉症の息子がした質問であることがかいてあり、その隠喩がこの物語を引っ張っていて、夢中で読めた。
しかし、「アルジャーノン・・・」とは比較できない。ところどころルウによって語られる、彼の両親の言葉がとても印象的だ。
僕の両親は、ひとのことを怒っても、それでそのひとたちの態度がよくなるわけではないと言っていました。
なにかをやりたいと言うことは、やるということと同じではないと、私の両親が言っていたのを思い出す。
私はふたたび、母が言っていたことを思い出す。「努力をするということはやったことにはならない」努力だけではだめなのだ。やることだけに意味がある。
自閉症の子供を持つ作者の言葉なのかなと思ったりした。それぞれの言葉はとても正しく、深い。
・・・
今の世界では「自閉症」のような症状が、「障害である」と結論付けられ、それがアブノーマルであるという認識のもとに成り立っているように思う。そして、それ以外がノーマルであると。物語では、ルウたち自閉症の人間は、画期的な治療により「ノーマル」になれると言われ、自分のの存在を再確認する。ノーマルになるべきか?
作者は自閉症ではないのだろうが、この本を読んで、自閉症の人の感情がほんの少しわかったような気がする(多分、わかるはずもないのだけれど)。
ルウは「・・・ということは知っている。しかし僕は言わない」と、会話を聞いて、その不明確な部分を確実にとらえ、それに対して、ノーマルは意見をいったりしないことを理解している。
例えば、「超うける」というのを聞いて、「何を受け止めているのか?」と考える。ルウのほうが正しい。こういう会話などのつながりについて、僕たちは赤ちゃんの時にどんどん学んでいくらしい。それがうまくできずにいると、言語に障害が出たりもするという。
自分が、とても奇跡的にこうやっていろんな話を聞くことができ、人と話すことができることを知った。コミュニケーションの難しさってそういうところにあるのかもしれないということも考えた。きっと皆が皆、正しい言葉を使うわけではない。その言葉と言葉のつながりをつかめるかどうかで、ルウのような自閉症の人は悩んだりするのかもしれない。
そして、ノーマルというラインから外されるのかもしれない。私はきっと正常な人間になる。ただし、私のような人間が人を殺したりもする。だとすれば、われわれがノーマルであるという証明にはならないし、絶対ではない。
どこかで聞いた「マイノリティ(少数派)であるべきだ」という言葉を思い出した。ノーマルは多数なだけで強く存在する。最後に、この本が語りかけているテーマに対するとてもわかりやすい言葉があった。
もしだれかが葉の散る前の紅葉に、もっと温かな気候の場所に移れば幸せに暮らすことができるよと教えたら、彼らはそうするだろうか?
この本を「アルジャーノン・・・」と同じ分類とするのはよくなことだと思う。私は「アルジャーノン・・・」を読んで、はじめて本を読んで号泣したが、この本は別の感情を共有してくれる。それは私がノーマルだからか。あるいは年をとったからか。
私にはわからないが、この本がすごいことはわかる。