
(写真)渋谷センター街
ぶんぶんと僕の周りを飛び回っていた。
やがて、膝のあたりで小さく旋回し、2?3度着地を試みるが失敗する。
4回目にやっと、ハーフパンツの端っこにつかまるようにしてとまった。
僕はそっと左手を持ち上げ、ゆっくりした動きから突然スピードをあげるようにして、足元の蚊をつぶした。
パン!という肌を叩くかすれた音がして、手を止める。
そっと手を持ち上げると、小さな糸くずのようなものが膝から転げ落ちていくのが見えた。
それは一瞬、ふわりと空気に舞い、少し前まで生命がやどっていたようには見えなかった。
ふと膝の辺りを見ると、ハーフパンツが血で滲み、手には赤い液体と黒い粉のようなものがついていた。
赤と黒のコントラストが、肌の色にとても鮮やかだった。
しばらくの間、それをただ見ていた。
>インザ・ミソスープ
外人相手に東京の風俗をアテンドするケンジ。
彼は、フランクという作り物のような顔の男と出逢い、
夜の街を案内することに。
ケンジはフランクの奇妙な行動から、
最近起こった女子高生バラバラ殺人事件の犯人ではないかと疑うようになっていく。
流行のファッション。流行の音楽。
似たような格好。似たような顔。
時代は勝手に名づけられ、落伍者を笑う。
マイナーなものを好み、それをセンスだという。
本物を買いあさり、ニセモノを身につける。
言葉は「伝えたい」という強い意思がなければ、相手に届かない。
意思のない言葉は、まるですぐに忘れられる音楽のように、空虚なものでしかない。
渋谷の街を歩きながらそんなことを考えた。
ティッシュを配る女性の声。携帯電話の着信音。薬局のアナウンス。
電車の音。新発売のCD。酔っ払いの声。女子高生の会話。
どれだけ騒がしくても、ここはいつも寂しく思う。
評論家といわれる人間の説教。理想論。
まるで自分は関係ないかのように「だからこうすればよかったのに。」と言い訳をする。
今まで考えられなかった事件が起こると、理由をつけることに必死だ。
そうすれば、安心できるかのように、まるで知っているかのように口だけが動く。
この本に書いてあったように、なぜか感じる見えないものに抵抗する人間は、
果たしてどれくらいいるのだろうか。
「期待を裏切られ、弱い電流を体に流されていくような感覚に抵抗せず狂っていく」
ぬるま湯の中では、綿のはいったぬいぐるみのように、
刺されても手ごたえのないモノと一緒だ。
インザ・ミソスープ – 村上龍
ISBN:4877286330
夜。
玄関の扉を出て、階段ヘ向かう途中に、あるモノが目に入った。
それは、廊下の隅に枯れた葉のように落ちていて、
一面灰色の廊下に茶色のシミをつけたかのようだった。
静かな廊下なのに、なぜか不思議と大きな存在感を感じる。
よくみると、死んだアブラゼミだった。
時折風に揺れ、コロコロと乾燥した音がした。
僕はそれを拾い、階段を下りた。
マンションを出て、路地裏の道をすり抜けながら進んだ。
狭い道を挟んで、古い家が立ち並んでいる。
はみ出すように置かれた自転車や植木。
時折聞こえるテレビの音。窓からもれる弱々しい生活の光。
僕は、歩きながらコンクリートやアスファルトに覆われていないところを探した。
右手のセミが、少し重く感じた。
少し歩き、T字路に突き当たると、ふいに目の前の視界が広くなった。
そこには、少しだけ広い道が伸び、その道沿いにコンクリートの壁が立っている。
壁の向こうには、がらんどうの大きな建物があった。
窓は全て締め切られているように感じた。
道を壁に沿って進むと、背丈ぐらいのへんに鮮やかな門があり、学校なのだなと思った。
門を過ぎても壁は続く。
しばらくすると、壁の向こうにキンモクセイか何かの木々が植わっているところがあった。
僕は立ち止まり、壁の向こうにセミを投げた。
コンクリートより、地球に近いほうがいいと思った。
それに怖かった。
右手にある物体は、もうモノでしかない。
急に死というものを強く感じた。
頑強な壁の向こうには、土の見える地面が広がっている。
広がった世界に向けて、僕は死を投げた。
そして、誰にも聞こえないように、壁の向こうに消えたセミに「さようなら」といった。