自分の人生を生きるということ

ある人が言うにはコロナ騒動によって小さいお子さんがいる家庭は大変らしい。リモートワークといっても家には子供がいるわけで、仕事するのも大変! というのは、自分も子供がいるのでよく分かる。たまに一人になりたいときもあるしね。ただ、その大変さを先入観を持って「大変だね」っていうのはしたくないと思った話。まとまりはない。

少し前にとある人に「そんないいかたはないだろう」というふうに怒られた。意図せぬ怒りだったのでびっくりしたが、「そんなつもりはなかった」と話した。

それが伝わったのかはわからないが、その時話していたのは「他人の不幸」についてだった。わかりあえないと理解しながらも干渉しようとする。手を握り、大変だねと行って慰めあう。

それを話されて「まったく響かんな」とコメントしただけなのに、どうして怒られたのだろう。「うんうん、わかるよ」って言えばよかったのかな。

最近、色んな人と1on1などをしていて思うのは、想像以上に人はだれかを気にする。5年以上前の自分を振り返ると「あんときは人のこと気にしてたんだなぁ」という点が多々あるので人のことは言えないのだろうけど、そんなことよりも自分の人生を生きないとだめなんだろうなぁと感じる。

たとえば、アジアに旅行にいくと「貧困」を目の当たりにする。「かわいそう」と同情することもできるし、お金を渡すこともできる。いろいろできても正解はない。

逆に自分が貧困でも楽しく生きていたらどうだろう。お金を渡されたらどう思うだろうか?

僕の場合、おそらく余裕があるからそんなことを考えられるのだろう。夏にはプールサイドでビールを飲み、冬には温泉でゆっくりすごす。地球レベルで考えると、それができるのはほんの一握りの人でしかない。

そんな僕が「同情」ってどうなんだろう。

人は自分の人生を生きていて、自分も自分の人生を生きているだけであり、どちらも大変なのだから、とくにどうも思わなくてもいいじゃないか。

もし、相手が大切な友人であるなら、それは別のアプローチがあるはずだが、所詮、僕の知らない人の世界なのだから。

伊坂幸太郎の新刊『逆ソクラテス』を最近読んだのだろうけど、その本の主人公たちが直面する最大の敵は「先入観」だ。

相手が自分が選んだ人生であれば、それが「かわいそう」って本当にかわいそうなのだろうか? 未だによくわからない。