ダンス・ダンス・ダンス – 村上春樹

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ダンス・ダンス・ダンス〈上〉
羊をめぐる不思議な冒険から数年後の物語。不思議な耳を持つキキという名の女性を思い、「僕」はもう一度ドルフィンホテルを訪れることにする。僕の周りの出来事はすべてつながり、こっちの世界とあっちの世界の間で、自分が求めるものを探し、確実にステップを踏んで踊ろうとする僕。
ダンス・ダンス・ダンス。
テレビで同志社女子大?の教授さんが「中国と村上春樹」について熱く語っていた。中国で今、村上春樹がとてもブームらしい。また「村上的」という言葉すらあるらしく、「村上的な音楽」、「村上的な生活」というような使い方をするらしい。どうやら中国のプチブルジョア階級に人気があるらしく、教授が「プチ」を使ったことに抵抗を感じてしまった。
教授は人気の理由を以下のように考えていた。
村上春樹の小説に登場する人物は、社会にどうこう意見を言うわけでもなく、自分とその周りの限られた空間をとても大切にする閉鎖的な人物が多い。「自分はお前らと違う」というスタンスではなく、外界をいつもと同じ視点で見つめ、干渉もしない。そういうアウトローな生き方がとても指示されているらしい。
確かに、登場人物は積極的に何かをするわけでもなく、無気力のようでありながら、そうではない信念のようなものを持っている。しかし決して主張せず、「ごく普通」に生活をする。こういう人間は、なかなかいるものではない。


この小説の主人公は、とても反抗的だ。
「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」「羊をめぐる冒険」の3部作のその後を表している「ダンス・ダンス・ダンス」だが、確実に「僕」年を取っているのがわかるのも不思議だ。
最近の曲を「くだらない」といい昔の音楽や本を好む姿などから、「年月は勝手に過ぎる」という部分を自然に伝えてくる感じがする。
また、「ダンス・ダンス・ダンス」での「僕」はとてもユニークな人物だ。これまでの3部作とは異なり、よくしゃべる(一人でだが)ようになった。とてもクール。

「これは難しいぜ、ワトソン君」と僕はテーブルの上の灰皿に向かって言った。もちろん灰皿は何も答えなかった。灰皿は頭がいいから、こういうことには一切係わり合いにならないようにしているのだ。

人というものはあっけなく死んでしまうものだ。人の生命というのは君が考えているよりずっともろいものなんだ。だから人はくいの残らないように人と接するべきなんだ。公平に、できることなら誠実に。

タイム・カプセルに入れて「凡庸」というラベルをはって埋めてしまいたいくらいのものだった。

こういうのには名前がつけられるぜ。喪失感。

「ダンス・ダンス・ダンス」の「僕」はフリーのライターを仕事としていた。彼は自分の仕事をこんな風に言っていた。

誰かがそういう記事を書かなくてはならない。ごみあつめとか雪かきとかと同じことだ。だれかがやらなくてはならないのだ。好むと好まざるとにかかわらず。文化的雪かきだ。

僕はさながら「技術的雪かき」と言えるだろう。
僕がいなくなっても誰かがやってくれる。仕事で踊り続ける必要なんてない。理由もない。
妥協と惰性に任せてダンス・ダンス・ダンス。「うまく踊る」のはやっぱり苦手だ。
つまらない。くだらない。
自分の世界に閉じこもる「僕」。
しかし、「スプートニクの恋人」と同じように、少しさわやかに終わるこの小説はとてもよかった。
この「ダンス・ダンス・ダンス」を読んで、少しだけ村上春樹さんの本が理解できた気がする。
一番初めにこの本を読んでいたら、他の本の印象も変わっていたのかもしれない。